長江有祐選手 インタビュー

2008.08.11

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 いつかは逃げてやる――。

 つい数年前まではラグビーに対し、どちらかと言えばネガティブな感情を抱くこともあった。しかし、今は充実した日々を送る。

 今季、リコーブラックラムズに入団した長江有祐は6月、トッド・ローデンヘッドコーチ(HC)によるハードトレーニングを振り返り、「今は、ラグビーの練習をしているなって思いますね。練習内容とかも高校、大学みたいにただ走っているだけじゃなく、コンタクトしながら走ったり。すごく厳しいけど、楽しいです」と言った。単調とは対極にある練習内容に刺激を受け、ラグビーの楽しさを改めて感じている。

 ポジションはプロップ(PR)。171センチ125キロの体躯を誇り、出身の京都産業大学(京産大)では3年生時、自慢の強力スクラムで大学選手権準決勝まで駆け上がった。関東の大学が数多く上位進出を果たす傾向の強い大学ラグビーで、同じ関西の大阪体育大学(大体大)とともに"正月越え"を果たしたのだ。

 本人の冗談を借りれば、これらの活躍が「いい就職活動」となる。有力チームからの誘いはぐんと増えた。そのなかから、縁あってリコーが「就職先」となったわけだ。

 ラグビーへの意識が変わった背景のひとつは、リコー入団以前にもあった。

 大学4年生の春、U-23(23歳以下)日本代表に帯同。そこで同世代のトッププレイヤーとの邂逅があり、本人はのちに「ああいうところで経験したものは大きくて、上でもやってみたいと考えるようにもなりました」と振り返る。

 無論、今の自分があるのは「しんどい」時期のおかげだということも、認識している。

――愛知春日丘高校でラグビーに出会ったそうですね。

「岐阜県でバスケをやっていたんですけど、田舎がいやで、愛知県の高校をわざわざ受験したんです。で、(入学後に)バスケ部の見学に行ったら監督が怖そうだった。『あかんなぁ』と思って体育館の外へ出たら、たまたまラグビー部の(宮地真)監督がいて、すごい勢いで『お前、何やっとるんや! ちょっと来い!』って言われた。『何で? 俺、何もしてないのに・・・』って思っていたら、(その勢いで連れて行かれた先が)ラグビー部で、そのまま入部してました。強制でした。その時は、その人がラグビー部の監督だと知らなかったんですけど」

――春日丘は強豪校です。その後、京産大 でもラグビーを続けるわけですが、なぜ、続けてきたと思いますか。

「母校、今は強いみたいですけど、僕らの頃は練習もホントに走るだけ。ラグビーっていう感じじゃなかったですね。でも、とりあえず身体を動かしたかった(から続けていた)。筋トレにもハマっていたんです。

 大学に関しては、本当に辞めたろうかと思いました。1年目とかは何回でも寮を逃げ出そうかと思っていたんです。ただ、大西先生(健・京都大ラグビー部監督)には目をかけていただいていて、ずっとAチームで出して貰っていた。1年目から試合に出ていなかったら危なかったです。

 2、3年目は今ホンダヒートのHCをやっている、クリス(ミルステッド)さんが来てくれました。教え方がすごく上手。元々スクラムが強かったのに加えて、守備を強くしようと意識して、組織を身につけた。楽しかったですね。でも、楽しかったのが忘れちゃうくらいきつかったですね。練習は。今は続けてきてよかったと思いますけど」

――3年生の時は大学選手権準決勝に進出。2007年1月2日、公式記録によれば入場者数22508人の国立競技場で、早稲田大学と対戦します。

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「実際に立ってみたら『何じゃこのグラウンドは!? この観客はやばいだろ』と思いました。こんなの関西で試合していたら、なかなかない。花園の満員よりすごかった。緊張しましたね。(結局12対55で敗れたが)前半はいい勝負をしましたね(7対17。先制トライは京産大)。スクラムだけは負けたくないと思ってたんで」

――2試合連続で行われた準決勝。もう片方の試合に出場した関西のチーム・大体大と、お互いの試合前の入場時に花道を作りました。

「タイダイ(大体大)のキャプテン(平瀬健志・現NTTドコモ)が考えてくれた。嬉しかったですね。伝統になっていくかはわからないですけど、普段リーグ戦ではライバルとして闘っているけど、そういう時には関西の仲間になる。すごくいいことだなと思いました」

――関東より関西の方が、そういう文化が根付きやすそうです。

「そうですね。関東には選手が集まるというイメージがあるから。(東西間の)力の差もありますからね」

――4年生の春には、U-23日本代表に選ばれました。

「日本代表とかは、目指したことがないわけでもないですけど、僕には遠いものだろうなと思っていた。最初は"追加"みたいな感じで呼ばれたんですけど、呼ばれる前に3番(右PR)の、今は神戸製鋼にいる山下(裕史)が先に呼ばれていて、『ああ、あいつが呼ばれたんや』と、すごく羨ましかった。でも、その後先生に呼ばれて『お前も行くことになったから』と言われた時は嬉しかったですね。僕と山下とは、最初は3番同士だった(現在、長江は左PR・1番を担う)。負けたくないという思いがあったんですけど、そいつに追いつけた。本当にこのチャンスは逃しちゃいけないと思いましたね。

 薫田さん(真弘・U-23日本代表監督・前東芝ブレイブルーパス監督)の練習は『こんなに練習するんか!?』っていうくらいしんどかったけど、すごくいいと思いましたね。とにかく激しい。それと、(合宿中は)社会人の先輩とかも来ていて、色んな人の考えも勉強になった。一番勉強になったこと? 練習への意識の高さですね。正直、京産大の何倍もの集中力があった。ことあるごとにキャプテンだった東芝の豊田(真人)さんが声を出していて、他の人からも意見が出てきた。僕は考えがなく、意見は出せなかった・・・。もっとラグビーを知らなきゃいけないなと思いました」

――大学選手権でスクラムを組み合った、"大学NO.1PR"との呼び声も高かった早稲田の畠山健介とも、この時はチームメイトとなりました。

「あの時(選手権準決勝時)、向こうは『ウチに負けた』という意識を持ってくれていたみたいで、『どうしたら強いスクラムを組めるんだ?』って、滝澤(直・現早稲田大学4年の左PR)と2人で僕に聞いてくれた。『負けたチームに聞くか? どこまで貪欲なんだろう』って思った。『(早稲田の選手は)プライドを持っていて、(ライバルの助言を)聞かない人たちなのかな』というイメージを持っていたんですけど、聞いてきた。そうじゃなきゃいけないんだな、とも感じました」

――リコー入団を決めたのは。

「1番は選択肢があること。辞めた後にしっかり仕事ができるというのもある。あとは僕、ずっと先生になりたいと高校の頃から思っていて、教員免許は大学の頃に取ったんです。(リコーでは)そういう事もできるよって言われて。入ってから決めたらいいし、僕も入ってみないとわからないから。最初、東京はイヤだと思ってたんですけど、来てみたら悪くはないですね」

 国立競技場という大舞台の緊張感に、U-23代表での発見。これらを経て、長江は自身のあり方を考え直したのかもしれない。

 特に代表合宿については、あれほど厳しいと思っていた「京産の練習」以上の激しさを知ってしまった。何より、そこにいるチームメイトは、自分の想像を超える集中力やラグビーの知識を持っていた。

「(周囲に及ばない)自分がイヤになりましたね」

少し気の遠くなる思いはしたものの、しかし長江はひるまず、未知の世界で揉まれることにした。

 当初は「イヤだ」と思っていた東京は広い。ラグビーに限らず、さまざまな価値観や情報が転がっている。ここで色々なものに触れ、試行錯誤を繰り返した分だけ、すくすくと伸びる――。そんな成長曲線は果たして見られるのだろうか。

 ちなみに、リコー入団への強い動機はもうひとつ、ある。

 自分と同じ京産大OBで、現在は選手や首脳陣から全幅の信頼を集める主将、伊藤鐘史の存在だ。長江曰く、学生時代からその存在は際だっていたという。

「京産でも有名というか、伝説。僕の2コ上の主将(喜田裕彰)が1年生の時に、鐘史さんが主将だったらしいんです。僕が尊敬する先輩が『鐘史さんについて行ったら間違いないぞ』と尊敬していた」

 いざチームメイトになってみると、その言葉の意味がわかった。

「一緒にトレーニングをさせてもらったんですけど、絶対に弱音は吐かないし、どん欲にやり続ける、追い込み続ける。でも、終わった後はケロっとして笑いながら話していて、いい先輩だなって思いました。すごい主将です」

(文 ・ 向 風見也)

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