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インタビュー

横山伸一選手 インタビュー

――高校卒業後、伸一選手は拓殖大へ。健一選手は一旦、地元で就職しましたが、その後しばらくして「やっぱりもう一度、一緒にやりたい」と電話してくるようになったそうですね。

「大学生ってラグビー漬けじゃないですか。だから3ヵ月くらい、健一のことはずっと忘れていましたね。その(もう一度共にという)話も、冗談半分だろうなって。でもオフの時、家に帰ると『家族って大事だな、ちょっと寂しいな』って思いがこみ上げてきた。健一も、9月か10月くらいにもう一度(ラグビーを一緒にやりたいと)言ってきたんです。『そのためにお金を貯めている』と。自分もそれを聞いて『あ、本気だったんだ』って思って、監督(遠藤隆夫・拓殖大監督)に頼み込んだ。それからちょっと仲良くなりましたね」

――1年時、チームは関東大学リーグ2部に降格してしまいます。1部への再昇格を果たしたのは3年時。しかし、翌年のリーグ戦1部で、昇格して間もないなかで3位。日本選手権出場を果たします。

「自分、いい言葉をメモっていて、そのなかに『いい思いの前にはつらい思いがある』というのがある。強くなったのも、それまで先輩に練習を手伝ってもらったりしたからだと思うんですね。それと、2年の時(入替戦に参戦しながら1部に)上がれなかったんですけど、あれほど緊張した試合はなかった(関東大学リーグ戦入替戦・対立正大学・2005年10月11日・熊谷ラグビー場・●=31対17 )。拓殖は伝統もない。『入替戦より緊張しないし、失うものはないからがんばろうよ』 って言っていましたね」

――昇格を果たせなかった入替戦が、ターニングポイントになったのでしょうか。

「何もできなくて、俺と健一のせいで負けたなって思った。そこからですね、強くなろうって思ったのは。当時、自分は奨学金をもらっていたんですけど、健一はもらえていなかった。監督ががんばってくれて、『1部に上がったらもらえるようにする』と言われたんですけど、上がれなければ健一が山形へ帰らなきゃいけないことになる。家は裕福じゃなかったんで。

 結局負けて、親に『山形に帰ることになった』って電話をしたんですけど、母さんに『何とかするからがんばれ』って言われた。『今までは甘かった。もっとがんばろう』って思いました。結局、監督ががんばってくれて、健一も2年から奨学金をもらえるようになったけど、そこからはラグビーに尽くそうって (強く思うようになった)」

――その後の活躍は目覚ましい。2007年5月6日の東日本セブンス選手権大会で優勝、その活躍が認められてセブンス代表に選出されます。当然、兄弟で。

「日本代表は雲の上って感じだったんですけど、実際にやってみると『あれ?』って感じましたね。人って、そんなに差はないのかなって。(外国人選手と対戦しても)ラグビーのスキルは日本が上だし、フィジカルもそんなに負けてない。でも、そういうなかでも学ぶことがあった。円陣を組む時にちょっとずれていたら、吉田さん(大樹・東芝ブレイブルーパス)が『しっかり円になれよ』って。『これがチームなんだ』って思いましたね。

 ただ、代表では健一とバラバラで出ることもあったんです。それで『一緒なら2倍3倍になれる』って思いが、確信に変わりましたね」

 家族の長所は離れてこそ再確認できるもの。ひとりで大学に進学してからの1年間、どちらかがベンチを温めるケースが続いたセブンス代表での日々。これらの期間を通じて、伸一は健一の、おそらく健一も伸一のよさ、互いの相性を知ったのだ。

 今はふたりにとって、3度目となる単身での挑戦となる。特に伸一にとっては、周囲の環境も激変する日々だ。それでも、多様性を認めるラグビーという競技で個性を発揮したいと、変わらずに思っている。

「ラグビーってマイナーなんで、『詳しくないと観に行けない』みたいなところがあるけど、気軽な感じで来てほしいですね。観ていて必死さや熱さ伝わる方がいたり、トリッキーなプレーをする方もいたり、いろんな選手が居るから面白いと思うんです。僕は1対1が好き。『外国人選手にも怖がらないで勝負してる!』って、そういう風に観て欲しいですね。できれば・・・」

 公としては「進路未定」の兄にも、思いを馳せる。

「俺 と健一で並んで、『横山家ここにあり』みたいになれたらいいですね――」


(文 ・ 向 風見也)



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