全日本選手権自戦記 2000.2.17 瀬良 司 <棋譜>


    学生時代と就職して数年間はオフタイムはほとんど将棋で一杯だったし、それ
  なりに頭も働いていたのに、ここ数年、だんだん将棋を考える時間が取れなくな
  り上達どころか現状維持についてもやや諦めの心境になってきた。将棋は集中力
  が大事といっても、現時点の棋力は本質的にここ最近の費やした時間の大きさが
  強さになるというのが持論である。苦戦の時に頑張れるのは、深く読んだ経験と
  「こんなに費やしたのだから相手には負けない」という執念であると思う。今や
  成長盛りの若手とは逆の立場になってしまった。そうはいっても、団体戦で輝か
  しい実績を積み重ねたリコー将棋部としてまだ将来を託せる若手が少ないので老
  骨に鞭打って頑張らざるを得ない状況である。早く強いのがたくさん入ってきて
  「試合は自分たちに任せてください。オジサンは応援に回ってください。」とい
  う状況にならないかな。


    話は変るが、自分が大学に入学して将棋部に入った時(77年)は、今と異な
  り7回生、8回生の山で留年者の溜まり場だった。なにしろサラリーマンの給料
  も安かったが、学費も安かった時代で、半年の学費が8千円という人がいたのだ
  から皆余裕があった。(今は百万円単位だからとても留年はしにくい。)団体戦
  は7人で構成されるのだが、レギュラーに入るのは、上記の事情から(実力があ
  っても)早くて2年生春。大将なんて3年生の秋になれればラッキーという状況
  だった。そこへ「おれが一番だ」という生意気な新入部員が入ってきた。彼は
  、1年秋にはレギュラー。2年生春には副将。秋には大将をやりたいと言ったが
  叶えられず、なったのは3年生春だった。個人戦では2年生春に関西学生名人
  。3年生春には全国学生名人になったが、年功序列が残っていたのである。その
  時は、先輩にポジションを譲るように勧めたものだった。今思うと冷や汗物だが
  、それで済んだ時代でもあったのだ。今はそんな良く言えば有言実行タイプ(悪
  く言えば傲慢不遜タイプ)が入って来るのを内心期待している。でも本当に引退
  させられては困るという気も少し残っているので、まだ大丈夫かな?


   さて、薄氷(というか何回も氷は割れていたが悪運が強かった)の思いで職団
  戦に優勝した余録として、この大会に出ることができた。今回の相手の学生さん
  は慶応大学。「リコーとしては初めての対戦であるが、関東リーグ、王座戦と圧
  倒してきたのだから好勝負が期待できる。」と主将は言っていた。が、自分とし
  ては、個人戦で活躍した人は河原君ぐらいしかいないし、山田から提供された棋
  譜を並べても強そうな人は少なかったので、5―2くらいで社会人の貫禄を見せ
  ようと思っていた。


   相手は葛山さん、事前に棋譜を並べた感じでは受け将棋で強いと思った。打上で
  回りの応援団に聞いてみると、やはり慶応では一番のホープだそうだ。昨年は早
  稲田の林さんと相穴熊を指した(私が四間飛車穴熊)ので、私が四間飛車党と見
  て狙い撃ちしたそうだ。彼は四間飛車には9割の勝率を誇るそうだが、私はその
  日の気分で戦法が変るタイプ。相矢倉になってガッカリしたそうだ。もちろん
  、そんなことは対局中には全くわからなかったが。


   序盤は3五歩交換ができて作戦勝ちしたと思っていたのだが、これは古い矢倉の
  本の知識で森内八段の「矢倉3七銀分析」を見たら互角の分かれだった。これを
  終局後に読んで気が付くところが私の抜けているところだが。その後、葛山さん
  にミスが出てよくなり、対局中は楽観のとりこになった。本譜の▲4八飛では最
  初の予定通り▲4六歩と桂馬にひもをつけておけばわかりやすかったと思う
  。▲4八飛は角に目がくらんだ手で、安全勝ちのように見えてそうでない手だっ
  た。最後△7五歩と突かれて、さすがに事態が容易ならざることに気付いた。本
  当はここで辛抱していればまだ難しかったのだが、粘る気にならず▲9八王と引
  っかけのような手を指してしまった。だが、葛山さんも最後にミスをする
  。△5三飛は△7七歩成とされたら後手王は詰まず負けだった。昨年同様、相手
  の終盤の錯覚で拾わせていただき、またしても学生さんの模範になることは叶わ
  なかった。すみません。次の試合ではむしろ「そろそろボロがはがれるのではな
  いか」と危惧している。




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