Black Rams - RICOH RUGBY FOOTBALL TEAM -

後藤悠太選手 インタビュー

2008.08.25

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 2008年1月12日、冷たい雨が降る国立競技場。早稲田大学ラグビー部がウイニングランを行う。大学選手権決勝戦で慶應義塾大学を破り、前年度逃していた日本一に返り咲いたのだ。

 のちにNECグリーンロケッツへ入団する権丈太郎主将は、"部員が一丸となって勝利に邁進するチーム像"を志向していた。レギュラーから控えまで、130名以上の全部員に同じ方向を向いて欲しかった。紆余曲折はあったが、決勝前日にはようやく各部員が「認め合える」雰囲気になったという。

 スタンドの早稲田側応戦席には後藤悠太がいた。この年の4月にリコーブラックラムズへ入団するスクラムハーフ(SH)、権丈らと同じ4年生だ。

 決勝戦のメンバーからは外れていた。それぞれ違う背景の大人数が、同じ熱量を持つことは難しい――。試合当日までの1ヵ月強で、この感情をいやと言うほど味わった。自身が置かれている状況を『試合に出られない部員も一致団結』という美談で片付ける人もいる。が、現実は一言で括れない。

 後藤は最終学年のシーズンをこう振り返る。

「チームが勝つよりも自分がAチームに、というのが一番。特に(総当たりの)対抗戦なんて、一回負けても大学選手権には出られるじゃないですか。『負けろ』くらいの気持ちもあったのは事実です」

 6月14日。まずは学生時代の葛藤の前に、ラグビーとの出会いから語る。根っからの負けず嫌い。特に、現在神戸製鋼コベルコスティーラーズの主将である兄・翔太には、負けたくなかった。

――小学校1年生でラグビーと出会います。

「僕が始める前の年に兄貴が始めていたんです。(2人は)3歳差です。あまり覚えてないんですけど、小さい頃から兄貴がやっていたことは全部やってるんですよ。兄貴が親父に連れられてスキーに行き『楽しかった』と言うのを聞いて、来年からは『僕も行く』って」

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――かくして、お兄さんと同じ大分ラグビースクール(RS)でプレーします。

「小学校6年の時に一回辞めているんです。その時の監督は『勝たなくてもいいから楽しく』という感じだったんで、辞めました。勝ちたかったんで。中学の時、最初は体操をやっていたんですけど、ラグビー部もあった。校庭で毎日練習しているのを見て『入りてぇな』と思って、半年くらいで(部を)移ったんです。ところがその次の週、『明日、RSとの合同練習だから』となった。『前の監督やコーチ、全員いるぞ』と思いましたけど、行かないとは言えなかった。当日、向こうのグラウンドに行ったら、そこの監督やコーチに『おまえ、何してる?』と。『ラグビー部に入りました』と言ったら、『じゃあ、日曜日は(RSの)練習に来れるな』と(笑)。大分RSの中学の方にも入りました」

――中学の部活の試合は日曜日がほとんどです。RSの練習や試合と日程が重なった場合はどうしましたか。

「しんどい時は午前中にRSの練習で、(終了後すぐ)チャリンコに乗って午後からラグビー部の試合という時もありました。さすがに足が攣って(つって)走れなかった。部活の方は弱かったし、人数もぎりぎりだったんで『出てくれ』という感じ。スクールの方は、中学からは真剣に勝ちに行くチームだったので、楽しかったです。ラグビーって面白いんだなって、中学校の時に勉強になりましたね」

――勉強とは。

「緊張感をどれだけ持たなきゃいけないか、とか。『緊張感には山がある。(頂上の)一番緊張している状態と、(ふもとの)緊張していない状態。そのどちらでも、パフォーマンスはよくない。中くらいの緊張感でずっといなきゃいけない』と、監督に教えてもらいました。『試合前のアップではガチガチに緊張感を高める。そこからストレッチをやって、身体を動かす中で緊張もほぐれるから、それで試合に臨めばちょうどいい感じ』と」

――高校もお兄さんと同じく、神奈川の桐蔭学園に"留学"します。

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「大分県よりも関東の方がレベルが高いと思っていたら、そこに兄貴が行った。僕の中で、兄貴には何においても負けたくなくて、それ(関東)が最低レベルになっちゃったんです」

――お兄さんをライバル視する感情は、昔からですか。

「多分、その頃はそんなに考えていたわけじゃなかったんです。でも、今振り返ってみれば中学の(RSが参加する)九州大会でも、兄貴の代は準優勝だったから、自分も最低でも準優勝と思っていた(結局、準優勝を果たす)」

――早稲田に進学した動機も。

「一緒です。兄貴に負けたくなかった。兄貴が早稲田に行っているから、自分も同じかそれ以上のところじゃないと許せなくて。ラグビーなら早稲田か明治か慶応かカントー(関東学院)。で、アタマ(勉強)なら早慶上智。私立文系だったんで、国立は無理でした。で、上智には(強い)ラグビー部はない。だから早稲田か慶応を受験しようと。

何で早稲田にしたのか? 何ででしたかね。何かを思って、早稲田一本にしたんですよね」

――早稲田では2年生の冬にSHへコンバートも、その後は怪我に泣かされます。勝負を賭ける4年生時、同学年の同ポジションには、1学年上の三井大祐選手がいました。彼は留年して日本一奪還を目指していた。

「正直、ずっとBチームだったんで、Aチームが勝とうが負けようがどうでもいい。自分がAチームになることが一番でした。結局、最後に膝の靱帯(右前十字靱帯)が切れちゃって、何かもう、出れないこと、できないことがわかっちゃうんですよね。トレーナーの人にも『復帰すればパフォーマンスが落ちていくばっかりだから』と言われた。実際やってみて、どんどんそれを実感していって・・・。

 そこから自分は厳しいのがわかって、(権丈)太郎が言う『みんなで勝ちたい』というのをすごく意識するようになった。僕、春はBに居たのでシニア(A、Bチーム)の感覚を知って、秋はジュニア(Cチーム以下)の感覚を知った。両方の感覚は違うんですよね。そのなかで太郎は『一緒になって勝ちたい』と言っていたけど、(そのための仕事を)やらせたら一杯一杯になる。そのなかで『自分は何かできないかな』と考えながらやっていました」

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――要はジュニアの意識を高める、と。

「(ジュニアの選手だと)どうしてもシニアと同じ意識は持てないと思ったんで、そこまでは求めなかったです。だけど、『チームにいる意味を考えて貰いたい』と言いました。ジュニアはどうしても『どうせシニアが勝てばいいんだろ』となっちゃう。それで最後に優勝したときに『あぁ、よかったね・・・』となるのは淋しいと思った。『ジュニアの選手も少しは貢献していたと思えたら、全員で喜びを味わえる』じゃないですけど、そういう意味で(言った)。

 でも、難しいですね、難しかったです。感覚は全員違うし、求めるものも違う。130人でやっていくのはすごく難しいんだなって、すごい勉強になった」

 結局、最終学年秋季の公式戦出場はゼロ。トップレベルでラグビーを続けたかったが、その芽は「ないな」と後藤は感じた。意識が高くないチームに所属するなら足を洗おうと引退を決意する。実は3年時から、ラグビーと無関係の企業への就職活動も行っていたのだ。

 ところがある日、同級生から寝耳に水の知らせが飛び込む。「友重さん(佐藤友重・リコーFWコーチ)が悠太の(携帯電話)番号を知りたがっているんだけど、教えてもいい?」と。

 後日、その佐藤コーチから本当に電話が来た。獲得の打診だった。

 リコーは元々、サイズのあるSHを求めていた。4月8日のY. C. A. C.ジャパンセブンス(国内の学生・社会人チームが参加する7人制ラグビーの大会)を佐藤コーチが視察、早稲田のメンバーの一員として練習していた後藤を見て、「あいつ誰だ?」と思ったのだ。以来後藤はリコー入りを視野に入れ、現在に至る。

――今季の目標は。

「難しいんですよ。今、怪我でリハビリ中なんで。一番の目標は早く復帰することですけど、(周りからは)『それよりもちゃんと治せ』と言われる。僕としては1試合でもいいから出たいです。練習試合を見てると、『ああ・・・』って思いますね」

 こう言って、兄以外にも負けず嫌いであることをにじませた。そしてその気質ではどうにもならなかったのか。「130人は難しい」と学生時代を振り返る後藤の目は、赤く腫れていた。

(文 ・ 向 風見也)

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