Black Rams - RICOH RUGBY FOOTBALL TEAM -

池田渉選手 インタビュー

2008.07.03

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 不思議な巡り合わせである。

 2008年2月10日、砧グラウンドでリコーブラックラムズが臨んだサテライトリーグ決勝戦。これを「昨季のベスト」と振り返る相手チームのスクラムハーフ(SH)が、今季リコーに移籍してきた。

 池田渉。結局サテライトリーグを制した三洋電機ワイルドナイツで7年間プレーし、日本代表キャップを14、記録している。

 昨季の三洋電機は主力チームも好調で、トップリーグ13連勝、日本選手権でも日本一に輝いていた。しかし、SHのポジションでは新人の田中史朗が台頭。フル出場を続ける。それまでレギュラーだった池田の先発出場はなかった。

「開幕の1週間前に肉離れを起こし、サテライトの最終戦が復帰戦だったんです。それまでも(トップリーグの)公式戦でリザーブに入っていたけど、それは(復調前ながら)6年間の経験で入れてくれただけ。自分のなかで完全に身体が動けていたのは2月のサテライト戦がベストです。その時の(トップ)チームはほとんど勝っていて、わざわざメンバーを替えることもない。そこは誰もがわかることです」

 たとえ怪我で出られないのが実情でも、第三者はただ『出られていない』としか思わない。池田もそうした目線で自身を見るようにした。すると、色々なものが見えてきたという。

「(三洋に)7年間所属して6年間スタートで出ていたので、怪我で出られなくなったことで、出られない人間の気持ちやスタッフの目から見たチームを、初めて体感できたんですよ」

 そもそも、大好きな親戚のお兄さんがやっているからという理由で始めたラグビーだが、今では競技そのものが好きになった。40歳まで現役生活を続けたいとまで考えている。だからこの1年間は、これから競技生活を重ねるうえで良い経験だったと、思うようにしている。

「最初は悔しさでいっぱいだったけど、現実に起こっている事だからプラスに考えないと」

 何事も自らの礎になるととらえ、日々を過ごす。

――チームのHPに書かれたプロフィールによれば、ラグビーをはじめたのは『親戚が3人やっていた為』と記されています。

「まずは10歳上の方がラグビーを始めました。10歳も離れていると、その方が高校を卒業する時に僕は小学生とかで、僕を弟のように可愛がってくれた。ドライブに連れて行ってもらったり、僕が毎日のようにその方の家に泊まりに行ったり。その親戚の人がカラオケで歌を歌えば、その歌を聴いて涙を流すくらい好きでした(笑)。だから、ラグビーというものはまったく知らなかったんですけど、その人が好きという理由で観に行っていた。さらに僕より5歳上のその人の弟、3歳上の別の親戚と、3人がラグビーをやっていた。それが一番のきっかけですね」

――そのお3方と同じ、宮城水産高校のラグビー部に入部します。

「高校も先生もその親戚と一緒だったんで、『こういう練習だったんだ』『こういう厳しい先生だったんだ』と、何にしても(自分の経験をその方の経験に)置き換えていた。別につらいとか(の思い)はまったくなく、その人がやっているスポーツを経験できるんだと」

――思い出が花園を決めたゲーム

「10歳上の人は、花園に行けなかった。僕自身が行きたいのと同時に、その人を花園に連れて行きたいというのもあって、勝って優勝したので、思い出に残っています。その(思いからの)枝分かれで『全国大会』とか『3年間の集大成』という要素があったんですね。僕の今があるのはその人がいるから。最初は好きだったのがラグビーというより人。その後三洋に入ったりジャパンに選ばれたり、今回リコーに入っているのは、周りの人のおかげ。初心、忘れるべからず」

――その『感謝』の意、多くのラグビー選手から聞かれます。

「(感謝は)教えられてするものではなく、経験してわかり得る事だと思うんですよ。僕も18歳のときは感謝なんて感じていなくて、ただ練習が辛いとか、その親戚の人がいたから頑張ろうとか思っていただけ。優勝したのだって、自分たちがやってきたからだと思っていた。でも、経験していくうちに感謝することの意味がわかるんです」

――高校卒業後、流通経済大学、NTT東北を経て、三洋電機とキャリアを積みます。さらに2004年、日本代表初キャップ。

「その時は選ばれて嬉しいという感情はなく、がんばらなきゃな、と。(その前のシーズンで)三洋は(12チーム中)7位だったんですけど、僕はベストフィフティーンに選ばれていた。名前が挙がったのはそういったところもあるんだろうと思いました。だから、まずはチームに対してありがとうと言いました。低迷しているチームから僕ひとりだけ代表に選ばれたと言う事で、まずはチームに」

――当時の日本代表は萩本光威監督(現NTTドコモ関西監督)でした。

「僕は最初、萩本さんに『ボールを持って走るな(パスさばきと状況判断に徹しろ)』と言われたんです。それまで僕の持ち味はボールを持って走ることだと思っていたのに。逆に持ち味を制御されて、自分にないところを求められた。生意気ですけど、代表でそれ(自分の持ち味とは別のプレー)を習得できたと思ったし、有意義な代表生活でしたね。組織の長が何を望んでいるか、それに対して何を実行できるかで選手は評価されると思う。チームから求められる事を即座にグラウンドレベルで出すという意味では、2004年に萩本さんから要求された事が自分の幅を広げてくれたと思いました」

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――2005年の代表では、ジャン=ピエール・エリサルドがヘッドコーチに就任します。

「その時はSHがすべての起点だ、とにかくゲームを作りなさいと言われた。ボールを持って走っても、パスもOKと。元々思っていたやりたいプレーも、萩本さんの言っていた状況判断もできたので、やりやすかったですね。

 僕自身は、(エリサルドが提唱していた)適応、順応は大事と思っている。僕は、たとえば食事に関しても出されたものを美味しく食べられる。周りの人間が『飽きた』『美味しくない』といっても、それでも美味しく食べられるんです。時間をどれだけ有意義に過ごすかという気持ちの持っていき方を自分なりに考えてやってきた。そういう意味では報道されてきた事(なかなか結果が出せない時期があるなどし、それらを問題視する報道が多かった)とは関係なく、自分で適応しようと考えてやってきたので、やりやすく取り組めましたね。周りの言っている事でも、いい事は取り入れて、悪い事は自分で模索するんですよ。『本当に悪いのか、もし悪いならどういい方向に持っていくか』と。そういう人間なんで」

――一方、所属チームは昨季まで三洋電機でした。リコーは『社業とラグビーの両立』を謳っていますが、複数チームに在籍してきた池田選手には「プロフェッショナルとは」についてお伺いします。

「ラグビーは企業スポーツ。やはり、(選手は)企業のなかの一員なんですよ。何にしても、環境に従っていかなきゃいけないと思うんですね。ただ、グラウンドで2時間ラグビーしている時間は皆が“プロ”だと思うんです。(その2時間のために)プライベートの時間、怪我をしないためにスノーボードを辞めるとか、マック(マクドナルド)で食事をしたいと思った時に9回は我慢して1回だけ行くとか、そういう姿勢を何年も積み重ねると、長く高いレベルで続けられるんじゃないかと」

――そして、昨年の心境についてもお伺いします。

「(試合に出られなくなって)一週間くらいは悩みましたよね。試合に出られない側の人間のことを考えずに、『出たい出たい』と思っていたんですよ。でも、気持ちを切り替えることで、試合に出られなくて練習しているときも楽しくできた。あの1年間は悔しいと言うよりも、いい勉強になったと思っています」

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――そう切り替えられたきっかけは。

「それはね、『何をきっかけに』というのはなく、本当に自分の気持ちひとつ。僕は高校から、試合のビデオを観ているんですけど、その中でプレーをする楽しさを家の中でも味わうことができた(と思うようにした)。怪我をするまでは、グラウンドに行って結果を出して試合に出て、という感じだったけど、試合に出られなくなった事で、今度は画面の中で試合をしているかのように気持ちを切り替える。これでプラスに持っていけるようになった、のかな…。

 イチロー(MLBシアトルマリナーズ)も難しい言葉をよく言うんですけど、僕はあれがよく理解できます。自分にしかわからない言い方があるから、あれだけ一流でやれると思うんです。まぁ僕も、おおよそ考えられる言葉では表せない、自分のなかに思っている気持ちで切り替えた、と」

――「出られない人の気持ち」とは、どういうものでしたか。

「公式戦前の1週間の練習が、メンバーを決めるセレクションの場なんですね。僕の場合は怪我で最初から出られないんですけど、怪我をしていなくて、監督に認められれば出られる選手も何人もいるわけです。そういう選手がどうやって練習しているのかがわかる。同じポジションの(レギュラー)選手がやっていたプレーの上を目指してやっているとか、真似してやってみているとか、客観的に見えるんですよ。去年はチームが日本一になったので(メンバーも固定化され)、明らかに出られない選手もいたんですが、そういう選手も一生懸命やっているんです。皆が試合に出たいのであって、『所属していればいい』という選手は一人もいないんだなと」

 こうして、他者理解の幅を広げていく過程で、身体も復調した。サテライトのリコー戦で、次を見据えるメドが立った。自身の替わりに出場していた田中は新人王を獲得、日本代表にも選出されたが、その彼と改めてポジション争いをする選択肢もあった。

 しかし、移籍を決断した。

「怪我をしていた時、誰に言われたのでもなく、自分が持っている技術や状況判断を若い奴に教える立場になっていたんですね。すると監督(宮本勝文氏・現在は社業に専念)も、僕がやったことを、今度は田中にやらせてみたりするようになったんですよ。今回、三洋から『また契約しよう』と言っていただいたんですが、自分はプレイヤーとして没頭したかった。またもう一度他の人と(ポジションを)争って、勝って、プレイヤーとして出たい気持ちがあったんで、それが移籍の理由でしたね」

新チーム選択の根拠は、ラグビーを始めた時と同様“人”がキーワードとなった。

「誰とプレーしたいか。そうなると僕が考える世界で最高のSOラーカムと一緒にプレーしてみたい、と。今までもトニー・ブラウン(三洋電機/ワラタス・元ニュージーランド代表)とやっていた。ニュージーランドのすごい選手の次はオーストラリアのすごい選手とできる。こんなに幸せな選手はいないなと、自分は思うんです」

 ラーカムと1分1秒でも長くプレーを、が個人目標だ。

「個人的にはリコーに貢献することが目標。その意味ではラーカムと長くプレーできるということは、リコーに貢献できていることになると思う」

――他に、個人的な目標は。

「地域に色々な事で貢献したい。リコーで言えば、近隣のラグビースクールに(伊藤)鐘史とかが出向いてラグビーを教えていると思うんですけど、ああいう事もやっていきたいです。あとは、単純に言えばテレビに出演するとか、スポンサーを募って講習会をするとか、プライベートな時間も使って」

 人と出会い、人から得て、人に還す。そういえば、LO田沼広之が「ラグビーは人間くさいスポーツ」と言ったことがある。池田は誰とどこで出会っても、ラグビーをする運命だったのかもしれない。

 2008年6月28日、広島総合グラウンドでのマツダブルーズーマーズ戦。初めてリコーの背番号9を纏った。試合そのものではチームの課題をいくつか散見したが、本人曰く「誰もが知っているSHの仕事」を全うできたと思えた。だから開口一番、「楽しかったです」と振り返った。

(文 ・ 向 風見也)

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